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[卒論メモ12]反戦報道されたベトナム戦争② [::卒論memo]

東西冷戦下、中華人民共和国や東ヨーロッパでは相次いで共産主義政権が成立している。当時、一国が共産化がすると、“ドミノ倒し”のように周辺国にも共産化の波が伝わっていった。このいわゆる「ドミノ理論」という言葉に米国は怯えていた。

そこで米国は、フランスを宗主国としている南ベトナム、ゴ・ジン・ジエム政権を援助し、反共産の拠点にすることを考えた。米中央情報局(CIA)派遣後、1961年、ケネディ大統領は軍事顧問団を派遣し直接介入を開始した。しかし、まもなくゴ政権はクーデターに倒れ、ケネディも暗殺される。南ベトナムへの介入は頓挫しかけたものであった。

後任政権にジョンソンが就いたその後の1964年。トンキン湾事件が起こる。

8月2日に米駆逐艦マダックス号がトンキン湾公海上で銃撃を受け、さらにその4日後、マダックス号とターナージョイ号が北ベトナムに魚雷攻撃を受けたと発表したのである。これをきっかけにジョンソン大統領は、「トンキン湾決議」で戦争遂行の全面的な承認を受け、ベトナム戦争が勃発するのであった。そのだいぶ後にベトナムの銃撃は領海内にいたための反撃、魚雷攻撃は事実無根であることが判明している。

1965年2月、北ベトナムへの大規模な爆撃が開始、1965年3月、海兵隊が上陸。その数は同年末19万人に達した。最終的にアメリカ兵は54万人もの数が派遣されることになる。

そして、ベトナム戦争の戦局が大きく動いたのは1968年1月末に起きた「テト攻勢」である。「テト」とはベトナムでの旧正月のこと。相手も油断しがちなこの機を狙って、南ベトナム解放戦線側約7万人が、約100の都市や街で一斉に奇襲攻撃を行った。

テト攻勢が両者に与えたダメージは甚大だった。南ベトナム解放線側は、アメリカ軍、南ベトナム政府軍の反撃を受け壊滅状態に陥った。反面、米国側も死者543人、負傷者2547人とペンタゴンが発表する。ベトナム戦争1週間あたりの死者数では過去最高の数字である。また、南ベトナムの首都サイゴンにあるアメリカ大使館がわずか20人足らずのゲリラに一時占拠され、その模様が米国全土で生中継されてしまった。

このテト攻勢が転換点となる。

1週間しないうちにジョンソン大統領は4万8000人の徴兵を発表。増員の必要性を認め、米国の作戦がうまくいっていないことを国民に印象づけた。

そして、次期大統領選にジョンソンは不出馬を余儀なくされ、次の大統領には共和党のニクソンが当選。就任後、ニクソンは戦線を縮小し解決の道筋を探す。1973年、北ベトナムとパリ和平協定の締結を図るも失敗。最終的な決着は、1975年にサイゴンが陥落して南ベトナムが崩壊するというものだった。

ベトナム戦争は、米国史にとってきわめて不名誉なかたちで敗北を喫したのだった。

参考資料:
戦争とマスメディア―湾岸戦争における米ジャーナリズムの「敗北」をめぐって(石澤靖治著)
冷戦(Wikipedia)
ベトナム戦争(Wikipedia)


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