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[卒論メモ10]序文 [::卒論memo]

地獄の黙示録 特別完全版フランシス・フォード・コッポラの代表作に『地獄の黙示録(Apocalypse Now)』という映画がある。

『ゴッドファーザーシリーズ』で世界的な名声を得たコッポラ監督だが、ことこの映画に関しては、評論家の賛否が真っ二つに分かれるといういわくつきの作品である。

撮影過程においても、主演俳優の突然の降板と後釜の心臓発作、想定外であるマーロン・ブランドの体重増、エンディングが決まらないままのクランクアップ・・・。というように様々なトラブルに見舞われた。

「最初の本格的ベトナム戦争映画」と銘打たれるはずだった『地獄の黙示録』は、公開が延びに延びた。そして、製作決定から4年の歳月を経てようやく日の目を見ることになる。その間、コッポラは全ての私財を投げうってまでこの作品に注力した。ハリウッドの豪邸まで担保に入れて、2000万ドルを出してもまだ資金は足りなかった。

これだけの時間とお金を懸けてコッポラは何を描きたかったのか?

実は、“評論家の賛否が真っ二つに分かれる”というのは、『地獄の黙示録』が戦争の「狂気」をまざまざと描いている点に由来するからである。

主人公の若い大尉は、上官から、かつて米軍の凄腕幹部だった男の抹殺任務を命じられる。大尉はベトナムの川をさかのぼり、ジャングルの主と化した元幹部の下へ向かう。その間、様々な戦争の不条理に遭遇し悩みながらも元幹部と対峙した大尉。そして、彼なりに考えた結論を出し、この任務に終止符を打った。

冒頭に登場する大佐率いる空挺部隊は、ヘリコプターに付けたスピーカーから「ワルキューレの騎行」を響かせながらベトコン(※ゲリラ)潜伏の村を攻撃する。攻撃の理由は、村の海岸でサーフィンをしたいがためだった。挙げ句の果てには、戦闘機を呼びナパーム弾で森ごと焼き払う狂いぶりである。

川をさかのぼる過程で主人公は様々な戦闘地帯に遭遇する。だが、米軍側はどこにも指揮官らしい指揮官がいない。兵士はただ適当に実態のよくわからないベトコンと闘っているほどずさんなものだった。

安全そうな場所に上陸する兵士。それを撮影するカメラクルーは兵士たちにこう叫ぶ。「カメラを見るな、行け、戦っているふりをしろ」。後の章で説明するが、ベトナム戦争以後、テレビが戦争報道の革新的に変えた。このような光景はベトナム戦争後半で頻繁に目撃されていたという。

この映画の描く戦場は常識を覆した。

「ストーリーもあるようでないようなものである」、「戦争の狂気を上手く演出できている」など賛否は様々だが、それだけ波紋が大きかった証拠である。この映画がリアルな戦場の風景を突きつけ、国民を唸らせたのだった。

莫大な時間と大金を投じ、99%の撮影フィルムが捨てられた。現実のベトナム戦争もまた消耗戦である。「豊かすぎる資金と豊かすぎる機材」の常軌を逸脱した消耗戦だとコッポラは語る。

サーフィンをするために村を焼き払う大佐が許されて、軍を裏切った傍若無人なジャングルの暴君は許されない。どちらも狂っていることは確かである。戦場では何かが麻痺し、まともなモラルを持つことはできない。「善」や「悪」といった概念で一線を画すこともできない。そうした側面がこの映画で伝えられた。

現実に目を向けてみれば、我々が目にする「戦争」はその側面は加工の段階でばっさり切り捨てられ、単純な対立構図に形を変えられて茶の間に届く。

それは2005年現在も特に変わらない。

大義名分の見えないイラク攻撃、オブラートに包まれた戦争報道。我々が日頃、ニュースや新聞で目にする「戦争」とは何なのだろうか?過去、メディアと戦争はどんな関わりを持ってきたのか?そこからどんな特徴が現れてくるのか?それを本論で探っていきたいと思う。


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